幻冬舎plus 11/28(月) 6:00配信
本当はみんなが思うほどできる人間ではない、と不安に襲われるのがインポスター症候群。
金沢 悦子
「過労自殺」した電通の女性社員が残したとされるtwitterのつぶやきを読んで、共感した方、いませんか?
私は20代のときの自分と重なりました。仕事帰りの道すがら「誰か私をひいてくれないかな」と本気で思っていたあの頃と。
世間は「死にたいほど嫌なら辞めればいいじゃん」と言うかもしれませんが、そう簡単な話ではないのですよ。
就活で初めて感じた国籍の壁。焦りまくった10代。私にとって大きかったのは在日韓国人として生を受けたことだと思います。
在日だからといって特に虐められた記憶はありませんが、親戚の中で末っ子だった私は、早くに自分には選択肢があまり多くないことを思い知らされました。というのも、難易度ランキングで上位に入るような大学に通っていた従兄弟たちが、軒並み希望していた会社への入社が叶わなかったのです。教授からはこう言われたそうです。「帰化すれば推薦できるのに」と。
10代の私は焦りまくりました。就職が厳しいなら、何者かになっておかないとやばい! 生きていけない! しかし、残念ながら勉強もスポーツも習っていたピアノやバレエにも際立つ才能はなかった。まあ、努力が足りないと言われればそれまでですが。
見よう見まねで始めた女子大生コンパニオン派遣で、仕事の手応えを覚える。悶々としていた気持ちが少しずつ晴れたのは、大学に進学してイベントコンパニオンのアルバイトを始めた頃から。といっても、コンパニオンとしては鳴かず飛ばずでしたが・・・。やっとのことでオーディションに受かった仕事を全力でこなしていたら、次第に直で仕事を下さるクライアントが増えてきたのです。自分が受けられない仕事をコンパニオン仲間にふるようになったら、 “なんちゃって”女子大生コンパニオン派遣のようになっていました。人生はじめて「これ(仕事)ならいけるかも!」と手応えを感じた大学3年の秋。
「就活をしなくても何とかなるかも・・・?」などと淡い期待に胸躍らせていた矢先、父が他界。オーマイガー。専業主婦の母とフリーターの弟を横目に、このままコンパニオン派遣で一家の大黒柱になれるとも思えず、かといって従兄弟たちのトラウマから就活へのアレルギーもあり、ほとほと困り果てていたときに、仕事でお付き合いのあった方が、手を差し伸べてくれたのです。
その方はボランティアで学生向けに就活塾をやっていました。周回遅れというだけでなく、就活に対してかなり独特な見方をしていただろう私に、惜しみなく情報提供をしてくださったのです。おかげで、「ビジネスを勉強できてお給料のいい仕事」という条件にピッタリの会社になんとか補欠で入社することができました。
仕事の出来ない男性が、自分より昇進する不条理そこで営業職に就いた私は、何かに取り憑かれたように働きはじめます。新人賞に続き、2年目には新規事業部へと異動してトップセールスになり、25歳で転職したベンチャー企業では、同社初の売り上げ1億円達成。27歳でプレイングマネジャーとなっても、チームと個人で連続達成を続けていました。キャリアの階段を全速力で駆け上がった。
実際に取り憑かれていたのだと思う。自分を大きく見せたい妖怪に。自分より成績の悪い男性が昇進したときには、ものすごい剣幕で抗議しに行ったりして。思い出すと恥ずかしい過去・・・。
そんなわけで、高年収も肩書きも手に入れていったのですが、順風満帆なキャリアを歩いているように見えただろう私の心の中は真っ暗闇だったのです。この想定外の事態に、私はさらに自分を見失っていきました。
いつかメッキが剥がれる…。成果を出さないと不安でたまらない。というのも、27歳でプレイングマネジャーとなった私は、明らかに「インポスター症候群」を患っていたのです。インポスターとは詐欺師という意味で、成果を出しても、「たまたま運が良かっただけ」「本当の私はみんなが思うようなデキる人間ではない」「いつかメッキが剥がれるに違いない」などと不安に襲われる心理状態のことを言います。まさに、「成果を出さない自分に価値はない」「いつか部下にバカにされるに違いない」などと自分を追いつめ、週の半分は会社に寝泊まりするようになっていました。しかも、睡眠不足と焦りからくるイライラをつい部下に丸ごとぶつけてしまい、そんな自分に自己嫌悪、という負のループにはまっていたのです。
それでも逃げられなかったのは、ようやく手にした「仕事」という居場所を失いたくなかったから。将来を悲観していた10代の状態には戻りたくなかったし、従兄弟たちの仇をとったような気持ちもあったのかもしれない。
とにかく、やっとのことで登ってきた階段を降りたら、もう自分には何もないと思いこんでいたのです。
これまで握りしめていたものを、思い切って手放した。そうこうしているうちに、心も体もいろんなところに不調が出てきました。いつも呼吸が浅くて喉が詰まったようで苦しい。首が痛くて上を向くことができない。人前で動機に襲われる。会議の資料に書いてあることが読み取れないなど。ついに営業同行をした先でパニック発作を起こしてしまいます。
今になって思うのは、私が死ななかったのは、ちゃぶ台をひっくり返せたからなのかなと。一生懸命に生きてきたのに! 幸せになりたかっただけなのに! ふざけんな! って、残された力でちゃぶ台をひっくり返し、これまで握りしめていたすべてを放り出すことができて、ようやく我に返ることができました。
(後編へ続く)
■金沢 悦子
株式会社はぴきゃり 代表取締役
はぴきゃりアカデミー 代表1991年、株式会社リクルート(現株式会社リクルートホールディングス)に入社。営業に従事し、新人MVP賞を受賞。
1994年、株式会社キャリアデザインセンターに創業メンバーとして参画。広告営業で同社初、売り上げ1億円を達成。広告営業局局次長、広報室室長を歴任するも、仕事との距離感がつかめずに心と体を痛めてしまう。この体験をきっかけに、「幸せに働くってどういうこと?」という問いへの答えを求め、2001年、日本初の総合職女性のためのキャリア転職マガジン「ワーキングウーマンタイプ(現ウーマンタイプ)」を創刊、編集長に就任。編集長時代、5000人以上の女性を取材。ハッピーキャリアを見つけるための4つのステップを体系化する。
2005年に独立し、有限会社フォーウーマン(現株式会社はぴきゃり)を設立。2011年、はぴきゃりアカデミー開講。「恋する仕事への4つのステップ」&「統計心理学i-color」を使ったオリジナルメソッドにより、年間300人以上の女性たちを「ココロとサイフが満たされる仕事発見」へと導いている。
40歳で第一子を出産。休みの日は趣味のサンバを楽しむ。
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