27歳「発達障害」の彼女がついに得た居場所
彼女は不注意と衝動性を抱えている(筆者撮影)
独自のルールを持っていたりコミュニケーションに問題があったりするASD(自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群)、落ち着きがなかったり不注意の多いADHD(注意欠如・多動性障害)、知的な遅れがないのに読み書きや計算が困難なLD(学習障害)、これらを発達障害と呼ぶ。
今までは単なる「ちょっと変わった人」と思われてきた発達障害だが、生まれつきの脳の特性であることが少しずつ認知され始めた。子どもの頃に親が気づいて病院を受診させるケースもあるが、最近では大人になって発達障害であることに気づく人も多い。
発達障害について10年程前に知り、自身も長い間生きづらさに苦しめられていたため、もしかすると自分も発達障害なのではないかと考える筆者が、そんな発達障害当事者を追うルポ連載。発達障害当事者とそうではない定型発達(健常者)の人、両方の生きづらさの緩和を探る。
第13回となる今回は、関東在住で、不注意と衝動性が優勢のADHDを抱える植野亜純さん(仮名・27歳)。植野さんは社会に出てから発達障害が判明した。何度も転職を重ねた末、現在は発達障害児放課後等デイサービス(発達障害を抱える子どもの支援施設)でフルパート勤務をしている。
子どもの頃はほぼ毎日夜尿をしていた
植野さんは幼い頃、夜尿症に悩まされた。夜尿症とはいわゆる子どものおねしょのことだ。中枢神経の発達が未熟、夜間の水分制限や排泄習慣を守りにくい、下着が濡れている感覚が鈍いといった理由で、夜尿症とADHDが関係しているのではないかと、最近の研究で指摘されているのだと植野さん。さまざまな当事者の話を聞いてきたが、夜尿症のパターンは初めて聞いた。「365日ほぼ毎日夜尿でした。幼稚園の頃、お泊まり保育のときは、先生に夜中2回ほど起こしてもらっていました。小学5年生の頃に臨海学校があった際は、さすがにどうにかしなければと、泌尿器科の名医のもとで治療しました。どんな治療だったのかは覚えていないのですが、そこから少しずつ夜尿はおさまりました。
でも、中高時代も年に1度ほど、ストレスを感じたときに夜尿をしてしまっていました。トラウマのようにしてずっと引きずっていたのだと思います。だから、家の布団には防水シートを敷いていて、それがあるだけで安心しています。友達とどこかに泊まりに行くときは平気なのですが、家でだけ夜尿してしまうんです」(植野さん)
夜尿症のほかに、ADHDらしき症状は小さいうちはあまり目立たなかった。しかし、中学の頃、いじめに遭う。当時、学年で嫌われていた女子と一緒に過ごしていたら、ほかの生徒からの無視が始まったのだ。また、当時流行していた学校裏サイト(その学校の生徒をネタにした内容が書き込まれるネット上の掲示板)にも、「キモい」「死ね」といった中傷を書き込まれた。
「今もですが、私はあまり性格が女の子っぽくないというか、仲の良い友達もどこか男っぽいところがある子たちなんです。当時も、男子のほうが話しやすいから男子とよくしゃべっていたら、『植野は男子と女子とではかかわり方が違う、男子に媚びているよね』みたいなことを直接言われてしまって。
矛盾しているのですが、女子特有の集団行動に対するあこがれはあったんです。だから、高校は県内で1~2位を争う進学校の女子校へ行きました。でも、やはりにぎやかな女子のグループには混ざれず、静かなタイプの子たちと一緒にいて、素の自分を出せないまま3年間過ごしました」(植野さん)
高校はギリギリのラインで受かったため、授業に全然ついていけなかった。とにかく大学受験のプレッシャーが大きく、いじめられていたわけではないが教室に入れない日が続き、保健室や自主学習できる教室へ通うこともあった。
「気分の波があることを、当時担任の先生に話したら、『私もそううつ病だから』と言われたことを、なぜかはっきりと覚えています。その言葉がどんなタイミングでどういう意味を持って言われたのかは覚えていないのですが、そのフレーズだけが忘れられないんです」(植野さん)
教育系の仕事に就くもののオーバーワークに
高校卒業後は地元の大学に進学。家族との折り合いが良くなかったため、地元大学ではあったが、一人暮らしを始め、飲食店でアルバイトも経験した。大学ではそこまで仲の良い友達はできなかったが、バイトにうまく適応でき、大学の友達よりもバイト先の人と遊ぶほうが楽しかった。バイト先では人が変わったようにアクティブになれた。教育学部だったため、幼稚園の実習に行く予定が、ちょうどその頃から精神の状態が悪くなり、実習に行けなくなってしまった。精神科へ通院するようになったが、処方された抗うつ薬や(精神)安定剤は効いている気がせず捨ててしまい、通院自体もやめてしまった。
「どうしても教育系の仕事に就きたかったので、大学4年の秋頃に開催された最終の合同企業説明会で出合った家庭教師の会社を受け、無事正社員の内定をもらいました。そのときは、衝動的な勢いがあり、教育系の仕事ならばなんでもいいという気持ちが大きかったと思います」(植野さん)
希望する教育系の仕事に就けたものの、そこの職場の働き方が異常だった。担当している生徒の成績をどうにかして上げ、受験に合格させねばならないというプレッシャーもあった。会社からは残業を禁じられていたが、同期の2人が朝5時まで残業をしていたため「自分もやらなきゃ」と、一緒になって残業した。
「必死で授業の準備をしていたのですが、机の中は書類でぐちゃぐちゃ。使っているテキストはどの生徒も同じなので、一部だけコピーして持っていけばいいだけなのに、一人ひとりの生徒分全部コピーして持っていかないと気が済まなくてコピーばかりして、それを全部机の中に突っ込んでいて……。でも、すごく信頼してくれるご家庭もあって、仕事自体は楽しかったです」(植野さん)
しかし、残業続きのオーバーワークが負担となり、同期と授業のロールプレイングをしている最中に軽い動悸が出てきて、またしても精神科を受診。このときは、当時の医師から双極性障害の診断がくだっていた(現在は、別の主治医)。
双極性障害は、かつて「そううつ病」と呼ばれていた精神疾患だ。そう状態のときとうつのときの状態の差が激しいことが特徴的な病気であるが、ADHDと双極性障害は、医師でもその差の判断が難しいと言われているほど、似た症状を持つ。
仕事を辞めざるをえない状況となり、1年で退職した。しばらくは求職活動をしていたが、3社面接を受けて3社とも落ちた。
衝動的におカネを使う、衝動的に髪を切って後悔する
「そこから吹っ切れて衝動性が発動しました。今でこそ笑い話にできるネタですが、無職の期間、毎日1万円ずつ下ろして外出し、1日で1万円を使い果たすという日々を送り始めたんです。買ったもののほとんどは、必要がないものや、欲しいものではなかったので、今手元に残っているものは、ほんのわずかです。当時は、無駄遣いをしているという自覚がまったくありませんでした。また、これは今も使っているので結果オーライではあるのですが、ペアになっているCOACHの財布とキーケースを衝動的に買ったんです。具体的な金額は覚えていませんが、おそらく4万~5万円は払ったと思います。私自身はブランド物にあまり興味はないはずなんですけど……。そうやって毎日おカネを使っていたら、会社員時代に月5万円ずつ貯めていた貯金が気付いたらほぼなくなってしまいました。でも、完全におカネがなくなって、人におカネを借りるところまではいかなかったのはよかったと思っています」(植野さん)
以前取材した、ADHDの衝動性により買い物依存症に陥った倉田さんと同じケースなのだろうかと思って聞いてみたところ、「衝動と『もういいや!』という気持ちからです」とのことだった。また、これも衝動性と一種の自傷行為に当たると思うと植野さんが語ったのは、髪を短く切ってしまうことだ。
「自らハサミで髪を切ってしまい、切った後は後悔します。一時期はメンズのベリーショートくらいまで短くなってしまいました。そうやって髪を切るときの原因は母親とのトラブルです。今は、髪を切ることはなくなりました。また、物にあたってしまうこともありました。物にあたることは、今でもときどきあります(苦笑)」(植野さん)
この日、植野さんはショートカットだったため、もしかしてこの髪型も自分で切ったのだろうかと思い尋ねてみると、これは数日前に美容室で切ってもらった髪型だと知り、少し安心した。
入院中に両親に会った際、母親との軋轢にも悩む
家庭教師の会社を退職してからは、バイトやパートで食いつなぎながら、リワークのデイケアに通った。リワークとは、精神疾患による休職者を対象に復職に向けた支援だ。その後、母校の学童で働き始めたが、パワハラや職場の人間関係に悩み退職。その次はアパレル店員として働いた。しかし、辞める社員の送別会に、以前この会社で働いていたという社員がやってきたことで、自分がいなかった頃の話で盛り上がり、急な環境の変化に適応できずに、送別会の間ずっと隅っこにいた。そして、帰宅後にパニックに陥り、さらに家庭環境の悪さがそこに乗っかり、精神的に追い詰められてしまった。この職場も4カ月で辞めた。
「アパレル店を辞めた頃、主治医に『もうこの社会にいたくないので、ちょっと休養させてほしい』と願い出て、1カ月半くらい休養入院をしました。当初は2週間の予定だったのですが、2週間後に外出して両親に会った際、母親と接するのが苦痛で『やっぱり外の世界なんか無理だ!』と思い、1カ月半まで延ばしてもらいました。この入院期間、看護師さんから学ぶことがすごく多く、今でもその内容を鮮明に覚えています。
入院中は一時的に主治医が変わるのですが、私はもともとの主治医しか信頼していませんでした。その頃、ADHDの薬であるストラテラを飲んでいて、入院中の主治医から『合ってないみたいだから、ストラテラやめようか?』と言われても応じませんでした。でも、退院後にもともとの主治医から『ストラテラをやめようよ』と言われた際は、素直に『はい、わかりました』と応じました(笑)。すると、精神の不調が治まったんです。本当に薬が合ってなかったんだと思います。今はADHDの薬ではなく、双極性障害の薬を飲んでいます」(植野さん)
退院後は、復職に向けて就労継続支援B型事業所に通い始めた。これは、障害者を対象にした就労支援で、A型とB型がある。A型は雇用契約を結んで給与が払われる。一方、B型は雇用契約を結ばずに、労働に対して1日数百円程度の賃金が支払われる制度だ。就労継続支援B型事業所は、まだ一般的な仕事を行うことが困難な人が通う場所であり、植野さんはB型事業所に通った。そこに通いながら、養成講座を受けると、ピアサポーターの認定が取れる。植野さんはその資格を取ろうと思っていた。
しかし、B型事業所での仕事がラベル貼りなどの単調な仕事で続かず、ピアサポーターの資格を取る前に突発的に辞めてしまった。植野さんは単純作業よりも人とかかわる仕事がしたかった。就労継続支援B型を辞めた後は、ドラッグストアの障害者雇用枠で働き始めた。
「そのドラッグストアでは、ADHDの特性のため私が苦手なことをスタッフに箇条書きで伝えてもらっていました。でも、そこの店長が配慮と区別の差がわからない人だったんです。店長は『私はほかの従業員と同じように接していますよ』と、本部の人や従業員に言っていましたが、明らかに対応が違いました」(植野さん)
発達障害の子ども向け施設へ転職
このドラッグストアを辞めたくて仕方なかった頃、月に1回面談をしてもらっているワーカーさんから、発達障害のシンポジウムが開催されることを教えてもらい、それに参加した。現在は、このシンポジウムを主催していた放課後等デイサービスでフルパートとして働いている。ここは、発達障害のある子どもが学校の後や長期休暇中に通い、療育支援をする施設だ。植野さんは、学校が終わった子を迎えに行って公園で遊んだり、室内で宿題を見たり、長期休暇中は少し遠くの公園や遊園地などにつきそう仕事をしている。「今までは短いと4~5カ月しか続かなかった仕事が、ここではもう1年も続いています。私、子どもたちから『先生ってさ、おっちょこちょいだよね』って言われてしまうことがあります(笑)。子どもを見送るとき、ちゃんと送ったことを報告するために携帯を持ち歩かないといけないのですが、私はその携帯をすぐに忘れてしまいます。ある日、子どものほうから『先生、携帯持った?』と聞かれて『持ったよ!』と言ってカバンの中を見たら携帯が入っていなかったんです。『ほら、やっぱり!』って子どもから悪気なく言われました(笑)。
あと、私の特性でもあるのですが、数字にこだわりがあります。人の誕生日や車のナンバーはすぐに覚えられます。デイサービスの子どもにも数字にこだわりのある子がいます。施設に何台かある送迎車で『今日はどの車?』と聞かれた際、ナンバーを言うだけでどの車なのかがわかります。私と子どもとで会話が成立するのもおもしろいですね」(植野さん)
植野さんは終始穏やかにニコニコと話していたが、何度も転職を繰り返し、時には衝動的な行動やパニックを起こし、それを乗り越えてきた今だから、こうやって笑いながら話せるのだろう。また、植野さんの場合は母親との関係性を主とした家庭環境も大いに影響していたように感じられた。「生きづらさ」という大きな枠でとらえると、発達障害に限らず、みんなどこかに傷を負って生きているのかもしれない。
引用元
★★ 宮城県仙台市 ★★
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